Column

葬祭コラム

成人式も通過儀礼

毎年、成人式の会場で新成人が無軌道に騒ぐニュースを見る。子供だなと思う。日本の将来は大丈夫かと不安になる。風物詩か。暴れる奴が律儀にその会場へ行くこと自体がほほえましくも感じる。
近代の成人式なるもの経緯はいろいろ。徴兵検査という時代もあった。
「成人」になることは民族社会にとって、きわめて重大な儀礼である。
原始的な狩猟社会では、槍や弓などを与えられることで一人前とみなされ、中には命がけの通過儀礼がなされる。バンジージャンプなども、原風景はその儀礼だ。つまり一定の年代と体格などを規定し、なおかつそこに「神」の託宣を伺う意味もある。そこで死ねば、それまでである。選ばれし者ではなかったことになる。
成人式は死と紙一重の通過儀礼であった。
日本では成人式の原型を平安時代の「元服式」に見ることが出来る。それは15歳を基準として公家の儀礼から武家へと広まり、字のごとく子供とは異なる衣服へ着替えること、つまり髪型や装いなど、決められたルールの中で「大人向け」にすることが儀式化された。
同時に名前までも変える。幼名を捨て新しく命名を授かる。
そもそも成人とは「一人前」という了解を相互に認め合うことである。年齢だけの問題ではない。それの基準は労働力としての能力や地域社会の一員として、掟に順じて風土の儀礼にかかわれる資格でもある。成人は、その土地において、特に神祭りや葬式などでは、一定の「配役」を持ち回りで務めることになる。とくに体力のある若者の場合、「葬式組」(葬儀の際の相互扶助組織)では、葬送の際の穴掘りや柩を担ぐ力仕事を任されること多いらしい。
つまり成人とは、葬儀のお手伝いが立派に果たせる人の見極めでもある。